ありがとう


 現在、仕事の方では、立合検査というのが行われています。 製品の最終評価をする検査です。 工員服や背広姿のメーカーの担当者が待つ実験室に、白衣を翻して納入先の検査官が現れます。 ヒラリと現れます。 その格好良いの何の。 以前オビョーキバンドのブームがありましたが、よく白衣に身を固めて演奏している奴らがいましたね。 しかし、検査官は白衣だけでなく、純白の手袋を付けています。 明らかに検査官の方が格上です。 そのあまりの神々しさの為に、検査をする前から「申し訳ございませんでした」と謝りたくなる程です。
 この検査、「立合」というだけあって、ずっと立ちっぱなしです。 自分の担当外の検査の最中でも、検査官が検査しておられるのに座っちゃおれんと立ちっぱなしです。 僕なんかは傍目を避けてサボってばかりいますが、真面目な人は本当に一日立っています。 普段デスクワークばかりしている人間に、立ちっぱなしはなんとも辛い。 歩いたり体を動かしたりしていれば耐えられる時間でも、直立状態は辛い、腰に来る、足に来る。 昔靴屋でアルバイトしたことがありましたが、まだましだったような気がします。
 靴屋で働いていたときは、ちょうどセミルーズのブーツが流行っていて、若いお姉さん方が買いに来てくれたもんです。 場所柄、横浜の元町ということもありましたしね。 でもひどいもんで、「兎に角売れ」という至上命令が出てましたから、ちょっとやそっとサイズが合わなくたって売っちゃう。 大きすぎれば「午後には足はむくみます」、小さすぎれば「ブーツの革は伸びます」と説明するわけです。 お姉様方のふくらはぎを押し込むようにして無理矢理ファスナーを上げ、全部閉まればハイ一丁上がり。 どなたもブーツより自分の脚が太いとはお認めにならないので、必ず買ってくださいます。
 しかし良心が咎めたこともあります。 幾つも指輪をはめ黒茶色の毛足の長い毛皮のコートに身を包んだご婦人が、およそその方の娘さんとは思えないほど質素な出で立ちの、そうさなぁ、小学校6年生かそこらのお嬢さんを連れて来店なさったことがあります。 どういう関係なんだろう... 親子? 義母子? まあいいや、買ってくださりゃいいわけだから。 で、身なりからして高級品の二三足でも「お釣りはよござんす」とお買いあげかと思いきや、さにあらず。 店頭投げ売り品の似非表革の編み靴を一足を手にとって、「これ、水は染み込まないのかしら」とおっしゃる。 んなわけないだろうがと思いつつも、「ええ、大丈夫です」と答えましたよ、売れればいいんですから。 すると、「そう。いえ、スキーに行くんだけど、この子に履かせるものがなくてね」とお買い上げ。 そりゃダメだ!...と思ったけれど前言を覆すわけにもいかず、ただ見送るばかり。 去り際にそのおとなしそうなお嬢さんが笑顔で「ありがとう」とおっしゃった、その時の自己嫌悪ったらなかったなぁ。
 横浜スタジアムの整理員というのもやったことがあります。 これに関しては幾つも逸話があるのだけれど、やっぱり一つ似たような思い出がある。 あれは巨人戦でした。 巨人戦になるとものすごく人が入る。 更に巨人ファンは必ずマジョリティーだから態度がでかい。 そして五月蠅い。 目の前に小学校低学年風の子供3人が座って応援を始めたんですが、旗は振り回すしメガホンは振り回すし、僕は通路に小さな椅子を出して座ってなきゃならないんだけど、その旗とメガホンをかいくぐりながら耳が割れんばかりの歓声を聞いていなければならなかった。 まいったなぁって感じ。 ところがその内、何だか一人おとなしくなってきたんです。 どうやらお腹が痛いということらしい。 3人を引率してきたご婦人が「それじゃ帰りましょう」と言い出した。 おお、帰れ帰れと心で頷く整理員。 しかし他の二人、多分友達なんでしょうが、こいつらは「エエ〜!いやだよぉ」とごねている。 ガキンチョは仕方ねぇなぁと思いつつも、一応お役目、医務室の場所を教えて上げました。 実はその子、便秘だったらしく、浣腸だかなんだか打ってもらって、しばらくしたら俄然元気になって戻ってきた。 で、また旗は振り回すはメガホンは振り回すは、耳をつんざく大歓声。 あ〜あ、医務室なんて教えるんじゃなかった。 試合終了後には掃除を始めなきゃならないんだけど、ワルガキどもは試合が終わってもフェンスにかじりついてなかなか帰ろうとしない。 流石に頭に来て早く帰れと注意しに行くと、恐ろしいもんです、子供というのは真っ直ぐに人の目を見ますね。 そのワルガキはこっちに振り返り、真っ直ぐに僕の目を見て、「お兄さん、さっきはありがとう」と言ったのです。 なんだかドキッとしました。
 助けてくれて「ありがとう」、素敵なプレゼントを「ありがとう」、力になってくれて「ありがとう」、素晴らしいひとときを「ありがとう」。 「ありがとう」、この言葉のために人は働くのじゃないかな。

--- 8.Dec.1997 Naoki


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