昨夜遅く、テレビで吉永小百合さんの原爆詩朗読活動のドキュメンタリーをやっていました。 NHKだったかな。 米国の小さなホールでライブをやったとき、この上なくピュアでストレートで広く深く悲しく暖かく強力な被爆者の方々の詩は、国境を越えて人々の心を打っていました。 加えて、やっぱり吉永さんは上手だしチャーミングだから、詩だけではなく、吉永さん自身をみんな誉めていました。 もちろん吉永さんは経験豊かな女優ですし、一所懸命練習して表現力を磨き、発音を工夫してやっておられたので、もう一人の米国人男性(?)の方の朗読とは、何というか「入り方」のようなものに差があったと思います。 でも、吉永さんは、自分が評価を得ようと練習しておられたわけではなく、伝えなくては、表現しなくてはという使命のもとに練習しておられた。 だから、「みなさんが心に受け入れてくださるかどうかが心配で心配で」と仰っていたように、表現者は、それが全て、或る意味では自己など吹っ飛んでしまっている。 そういう活動を垣間見て、自分がとても矮小に思えたのでした。