ドルフィン

 日本が一大事の今、話題には事欠きませんが、今夜は至極個人的なことを。

 中2の夏、奈良から横浜に引っ越してきたとき、生活環境が大きく変化しました。 奈良では、専ら西大寺という町で育ちましたけれども、 近くには西大寺はもちろん、秋篠寺があり、平城の御陵があり、 山々に守られた箱庭のような奈良盆地の落ち着いた住宅街でした。 越して来たのは、横浜の根岸という町の、 切り立った丘の上のマンションで、 眼下には海と、巨大な石油コンビナートと、 まだ開通したばかりの根岸線の線路や列車をジオラマのように臨むことができました。 丘の上には、日本で最初といわれる競馬場の跡があり、 敗戦後進駐軍がハーフコースのゴルフ場に利用、 当時「森林公園」と呼ばれただだっ広い空地がありました。 現在は「馬事公苑」と呼ばれ、ポニーが飼われ、 博物館のようなものも建っているようです。

 しかし、当時その空地は殺風景で、背の高い金網で囲まれ、 これといった施設はなく、向こう側の端っこに おそらくメインスタンドだったのであろう不思議な 廃墟のような建造物が忽然と残っているのみでした。 空地のこちら側は、マンションや団地、町の郵便局、駄菓子屋、 それにさも良家のご子息が通いそうな男子校などがありました。 僕らは学ランと言って旧日本陸軍の軍服を模した烏のような出で立ちでしたが、 その男子校の制服は当時珍しい紺色のスーツにネクタイというものでした。 かの小田和正さんの母校でもあったらしく、 根岸線をモチーフにした歌まであると後年知りました。 その小田バンドのドラムとしても活躍されているプリズムの木村万作さんは 、大学の先輩で、一緒に演奏させて頂いたこともあり、 面白いご縁だなと感じています。

 おっと、話を元に戻します。 斯くの如く、空地の手前は普通の町だったんですが、 向こう側には異なる風景が広がっていました。 ペンキを塗った四角い木造家屋、広くて塀のない芝生の庭、 冬は地下の水路から温泉街のように湯気を立ち上らせる道。 そこは、“U.S.Navy”とありましたから、米海軍の居留地だったんですね。 一応の柵があり、日本の車両は進入できませんが、徒歩でなら入れる。 但し、夜間に侵入すると、正面に“MP”と記された白いヘルメットを被り ショットガンを背中に斜っ掛けにした二人一組の兵隊が 小走りに追ってきます。

 僕の青春時代は、この米軍居留地と共にありました。 これは、根岸のみならず、高校のあった本牧にも広がっていました。 本牧4丁目などは、今でこそ普通の街並みですが、 当時はフェンスがあり、フェンス沿いには見事な桜並木、 その向こうには青々とした広大な芝生の敷地が広がっていました。 本牧にあった高校への近道には、 その居留地を横断する必要がありましたが、 雪の降った朝など米軍兵士の悪ガキ、基、お子様たちが 嬌声を上げながら登校する我々に雪礫をお投げになる。 頭に来るのだけれど、とっ捕まえて締め上げるわけにはいかない。 なにしろ、あっちには武器がありますからね。 でもまぁ、若いパイロット夫人のお宅へ、 ご主人の留守中ですけれども、 何度かお邪魔させてもらったりして、 けっこう楽しい思い出にはなりました。 いろいろ面白いエピソードもありますが、 既に述べたやもしれず、ここでは割愛します。

 僕が初めて「ライブ」をやったのも、やはりその居留地でした。 本牧にあった“Teen Club”という看板のその小屋は、 いわば青少年向け公民館のようなもので、 小体育館、兼、ダンスホールといった感じの殺風景な内装でした。 僕が演奏したのは器楽のみ、歌なしのアドリブセッションで、 金ラメのレスポールでR&BやR&Rのようなものを弾いていたと思います。 観客は、日本人である若干の友人達を除けば、 同年代の米兵の小童どもで、ハーフっぽいのもいるし、 いわゆる典型的なアングロサクソン系やアフリカ系もいます。 およそ演奏を拝聴しているような輩は誰ひとりおらず、 踊っているか、酒を飲んでいるか、 或いはマリファナか何かを吸っている様子です。 演奏中、ステージの下でいきなり喧嘩が始まり、 殴り合って鼻血を出しているのもいました。

 その喧嘩の横で、卓球台の上に胡坐をかき、 ブロンド頭の小倅をからかうかのように、 煙草のけむりを細長く吹きかけている美少女がいました。 彼女は、まさに美少女であるということで目を引きましたが、 どこか見覚えのある顔立ちでした。 そう、たしか新発売した Nestle製のチョコレートのCMに出ているはずだ、 そのことに気付くのに4小節と要しませんでした。 テレビタレントとは殆ど縁のない僕にとって、 それはとてもワクワクした瞬間です。 しかし、殴り合いを掻い潜って卓球台の縁まで辿り着こう という勇気は、僕にはありませんでした。

 タレントとは縁がないと述べましたけれど、 越して来た根岸のマンションの隣の邸宅には、 かの勝新太郎さんが住んでいました。 僕は中村玉緒さんしか見かけたことがありませんが、 極稀にカツシンさんも庭に出ていたようです。 根岸の駅に出るには、そのカツシン邸の前を通り、 丘の上から急な坂道を標高差50mほど降りていかなければなりません。 その降り口の曲がりに、“Dolphin”という 看板を掲げたゴージャスなカフェがありました。 数年後、隣にもう一軒レストランのようなものが建つまで、 その辺りでは唯一の外食店舗だったのではないかと思います。

 “Dolphin”は、しかしながら、僕如き学生の 気軽に立ち寄れるカフェではありませんでした。 なんでも、当時ユーミン(松任谷由美さん)がよく来ていた などという噂を聞いていた通り、とっても高価だった。 たしか、コーヒー1杯で500円以上したと思います。 当時の500円というのは、今の1500円くらいの気分でした。 それでも、一念発起して、一度だけ入ったことがあります。 そんなに近所だったのに、たったの一度だけです。

 中は、少々派手なヨットハーバー風で、 広い窓からコンビナートと海とタンカーが見えました。 客層は、なんともリッチな遊び人風の大人ばかりで、 高校生なぞ場違い中の場違いといった雰囲気でした。 けれど、俯いてばかりもいられず、 上目遣いに一つ一つのテーブルを観察していてハッとした。 少し奥の、けれどすぐ正面に、あの美少女がいたのです。 ただし、“Teen Club”のときようなジーンズルックではなく、 ドレスアップしていて、見違えるような大人の雰囲気です。 実業家風の若い男性と二人でいます。 あんまり眺めていたものだから、彼女と目が合ってしまいました。 彼女は、この場違いな高校生に視線を投げたまま 斜向かいに座っている男性と何やら会話し、 やがて何事もなかったように また彼の方に向き直って談笑していました。 僕は、彼女の美貌に胸をときめかせると同時に、 なにか途方もない距離感を覚えた、そんなほろ苦い記憶があります。

 後で知りましたが、 彼女はセーラ・ロウエルさんというタレントで、 母上は日本人、父上は米軍のエンジニアとのこと。 “Dolphin”からそう遠くないところに住んでおられたようです。 彼女の訃報を知ったのは今夜、癌と闘っての他界で、50歳の若さでした。 単なるご近所さんというだけで、とりわけご縁もなかった方ですが、 僕にとっては、何か一つ、青春の終止符のようにも思われました。

セーラさんのご冥福を祈って

--- 5.Jul.2011 Naoki
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