新年あけましておめでとうございます。
少年サッカーに携わるようになって20年足らず、
少女サッカーチームを興してもうすぐ9年目が終わろうという季節に入りました。
最近は若い人に監督を任せ、専ら舞台裏、要は大会の企画や事務仕事が主です。
子どもらとボールを蹴るのが楽しみでやってきたようなものですから、
たまには指導にも顔を出すのですが、
小生の場合、顔は出すけど口も出すという性なので、
できる限りは慎ましくしているような状況です。
その代わりというか何というか、
6年生選手がいなくなってピンチだった一昨年から、
メールでいろいろ配信してました。
「オトナのサッカー教室」と題したエッセーのようなものです。
これは、少女サッカーの草分け的チームの代表から伺った、次のような言葉が発端です。
「私は、結局のところ、親御さん達にサッカーを教えているんですよ。
子ども達には、親御さん達がサッカーを理解することが必要なんです。
子どもは、放っておいたって、サッカーをすればするほど上手くなります。
練習に来て下手になって帰る子なんていないんですから」。
「オトナのサッカー教室」といっても、
ルールや技術・戦術の紹介には留まりませんでした。
むしろ、それ以外の内容の方が、圧倒的に多かっただろうと思います。
手元に残っている配信メールの副題だけ並べてもこんな感じ;
その1〜7、番外編×4、礼について、番外編、その8、番外編、リスペクト、アタリ氏の七つの行動規範、ポルケ、サッカーノート、2012年末編、風の匂い、何をすれば良いか、コーチのお仕事、スポーツと体罰、先例、コーチの心得、コーチ見習い、失礼な新米、約束、全員出場、ベンチスタート、掟破り、目標、おすな、ジリツ、足の痛み、正しい指導、ミーティング・トーク、
ジリツ、期待、誰が勝つのか、オーバーラップ、準備、セルビア戦、学び合うサッカー1/3〜3/3、意欲、精神年齢、
ある監督の拘り、リーダーになろう、教育、緑区大会に向けて、
とまぁなんと脈略のないメール配信だったことでしょう。
いま知りましたけれど、「ジリツ」という副題が被ってますね。
どんな内容だったか、推してし知るべしといったところです。
暮れに若い監督と飲みましたときに、
そのメール配信ももう止めてくれないかと頼まれました。
これは無理もないことで、何かを助言する、コーチするには、
タイミングというものが必要なのですね。
のべつ飛んで来る意味不明のメールは、雑音になりかねません。
そこで、明くる日だったか、最終回という副題で発信した次第です。
今回は、記念に、このスペースを借りてそのメールを掲載しておこうと思います。
オトナのサッカー教室(最終回)
掲題の迷惑メールは今回が最終回となります。
話題は、ずばり、教育についてです。
「教育」は、おそらく明治語なのではないでしょうか。
その漢字や言葉の正確な意味はよく知りませんが、
おぼろげながらニュアンスは分かります。
コーチは、サッカーを教えます。
「教育」の「教」ですね。
そして選手が育ちます。
「教育」の「育」です。
先ず、「教」ですけれども、
諸説あるうちの一つは、この字は
子どもを校舎に集めて鞭を入れる構図のようです。
虐待しようというわけではなくて、
仕付ける(「躾」は近代の造字らしい)の意味。
例えば、むかし素読(そどく)教育というのがありました。
文章やなんかを諳んじさせ丸暗記させるんですね。
子どもは記憶力が旺盛ですから簡単に覚えちゃう。
この時期には、もってこいの方法です。
しかしながら、昨今は批判的な意見が多く、
こういう寺子屋のようなスタイルは殆ど見られなくなりました。
例えば、子どもに論語を丸暗記させて何になるんだ、と。
それに対し、哲学者の小林秀雄氏はこう言っています。
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(子どもは)論語を簡単に暗記してしまう。
暗記するだけで意味が分からなければ、無意味なことだというが、
それでは論語の意味とはなんでしょう。
それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。
一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかもしれない。
それなら、意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。
丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。
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サッカーなら、運ぶ、蹴る、受けること、
あるいは見る、走る、守る、攻めること、
あるいは発言する、聞く、感謝する、握手することなど、
意味とか理屈はともかく、先ず憶える、身に付ける、
そういったことが素読に相当するのかもしれません。
さて、次に「育」です。
元々は「毓」みたいな字だったんだそうで、
子を産むとか、授乳するとか、そんな構図です。
だから、そのまんまじゃないか、ということですけれども、
ひとつ引っかかるものがあります。
訓読みです。
音読みは、大陸から漢字と共に伝わってきたものです。
けれど、元来この列島には和語のようなものがあり、
それを伝来した漢字に充てたのが訓読みです。
「育」は「そだてる」とか「そだつ」と読みますね。
和語の語源を知るのは簡単ではなさそうです。
南インドのタミル語がそっくりだということで
あっちの方から来たんじゃないかという説もあります。
実はもっとその前があって、
メソポタミアまで遡れるという説もあります。
例えば、シュメール語だかウル語だか忘れましたが、
「牡牛」のことを「ゴッテ」と発音するそうです。
一方、「獣」のことを「ウシ」と発音するので、
フルネームは「ゴッテウシ」となるそうです。
この後ろ半分が「牛」の訓読みになってしまったらしい。
因みに奈良の田舎では「牡牛」のことを「コッテウシ」と言います。
荒唐無稽と思われるかもしれませんが、
世界地図を広げ、現地の発音を調査し、
音韻変化の法則を当てはめて追うと意外なことが分かるのだとか。
世界中の否定語がなぜ“N”を頂いているのか、
ツバメの和語が「ツバクロウ」で、
ドイツ語の2が「ツバイ」で、
英語の烏が「クロウ」なのはなぜか、等々。
要は、陸路だけでなく、太古の昔から海路があって、
メソポタミアを出てインド、東南アジア、太平洋の島々
といった雄大な移民の痕跡もあるらしいのです。
その一部が日本列島にも辿り着いていたのですね。
そういうわけだから、南西諸島の言葉、
例えば沖縄口(ウチナーグチ)に、
なにやら古風な日本語のようなものが散見されるのも頷けます。
花に遊ぶ「蝶々」のことは「はべるん」、
「〜してください」は「〜してたぼり(たもれ)」、
現代の大和言葉にはなくなってしまった係り結びまであるそうです。
但し、沖縄口の発音は大和口と少し違います。
どちらかというと東北弁に近いのではないでしょうか。
例えば「お」は「う」に、「え」は「い」に近くなります。
なので、「思い」は「うむい」、「風」は「かじ」となります。
もしかしたら古代の和語も、そういう発音だったのかもしれません。
さぁ、そこで「育」に戻ります。
石垣島出身の歌手、夏川りみさんの「童神」という歌があります。
子を慈しむ親の心を歌った、とても美しい歌です。
これには、大和口バージョンと、沖縄口バージョンがあります。
どちらも素晴らしい録音で、気に入っています。
これを聞いていて気が付いたんですが、
大和口で「祈り込め育て」と歌っているところが、
沖縄口では「我身(わみ)ぬむい育て」となります。
すると、「お」が「う」に、「え」が「い」に近くなりますので、
「育て」は「すだてぃ」と聞こえるのです。
もしかしたら、「育つ」の語源は「巣立つ」ではないのか。
急にそんな気がしたのです。
ならば「育てる」とは「巣立たせる」ということではないのかと。
まぁ、言語学的な教養は持ち合わせていませんので、
この解釈が正当なものでなかったとしてもご容赦ください。
けれど、そうであったとすれば納得できると思いました。
もうすぐ巣立っていく6年生たち、
立派に育った姿を楽しみにしています。
良い歳をお迎えください。
--- 2014/1/4 橋本
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