ここ2・3年は、毎晩のように酒を飲む。
外で飲むにせよ、内で飲むにせよ、たいてい一人で飲むことになる。
すると、酔わないものである。
生理的には酔っているのだろうが、心理的にシラフのままなのだ。
この前の怪我が端的な例である。
寿司屋で飲んでいた。
よく話し相手になってくれる近所の居酒屋のマスターやママは来ていなかった。
見知らぬお客が数人いたが、割ってはいる雰囲気でもなく、かといって寿司屋の大将とサシというわけにもいかない。
取り敢えず、料理を楽しみながら杯を傾けるのだが、3合飲んでも4合飲んでもイイ気分にならない。
それじゃあと、店を出て散歩することにした。
そのうち酔いが回るだろうというわけだ。
深夜の公園に行き、ブランコをしたりジャングルジムをしたりして、最後は滑り台のてっぺんに座った。
すると、おぉ、地球が回っている、作戦成功だ。
しかし、回り方が激しすぎる。
これはやりすぎた、早く帰って寝ましょうと、滑り台を降りて帰途についた。
誰もいない深夜の高級住宅街である。
深い眠りについた豪邸の間を縫うアスファルトの道路が街灯に照らし出され、自分の足音だけが聞こえていた。
ペタ、ペタ(ゴム底なのだ)、ペタ、ペタ、ペタ・・・
ズズズーッ、ズズズーッ、ズズズーッ、ズズズーッ・・・、音が変わった。
なんの音かいなと周りを見渡すと、自分であった。
いつのまにか道路脇のブロック塀にもたれかかりながら歩いていたのだ。
足は黙々と家路を辿っているのだが、上半身は磁石のように塀に喰っ付いたままだ。
これはいかんな、離れないとと前に向き直ったとたん、ガッ!!という衝撃が走った。
背の低い真四角の門柱に顎をぶつけたのだ。
きっと歯が折れたと思い、指で探ってみたが、大丈夫だった。
不幸中の幸いと胸を撫で下ろしたが、その胸には血糊がべったりと付いていた。
顎がバックリ割れていたのだ。
まあいいか、仕方がないと、顎とシャツを血に染めたまま深夜の住宅街を千鳥足で帰った。
誰かが遭遇していたら悲鳴を上げるような風体だっただろう。
朝起きても、まだ流血していたからたいしたもんだ。
これに似た危険は、昔からあった。
誰しもそうだろうが、むしろ学生時代の方がヒドかった。
自分が倒れるというよりは、畳がせり上がってきて顔に激突するという塩梅だった。
そんなときは、決まって鉄っぽい臭いがしたっけか。
もっとも危なかったのは宮本悦二郎達と飲んだときだ。
僕がフラフラと店を抜け出してしまったので、みんな探したそうだ。
寒い夜だったので、僕は道路脇に止められている自動車とブロック塀の隙間に潜り込んで横になり、そのまま眠ってしまった。
そして、僕が発見されたとき、その車はなかった。
つまり、僕が眠っている間にその車は発車したのである。
寝返りでも打っていたら、いまごろこうしてエッセイなぞ書いていないであろう。
大学時代、もっともよく杯を酌み交わしたのは、サルという渾名の後輩である。
僕は、彼と飲む「サルザケ」を楽しみにしていた。
この男と飲むと、非常にハイテンションな酔いかたになる。
そして、必ずと言っていいほど、高いところに登るか、どこかに侵入するのであった。
僕は、元来高いところが苦手な人間だが、サルザケを煽ったあとは、マンションの屋上の給水タンクの上なんかによく登った。
寒い夜は、これもドアを閉めていたら人命に関わる事件となったわけだが、コインランドリーの乾燥機の中に入って暖をとったこともある。
或いは、某研究所へ忍び込み、「誰だ!」と叫ばれたこともある。
下宿に逃げ帰り布団に潜り込んだが、翌朝片足に大きなケガを負っていることが分かった。
逃げるとき何かに引っ掛けたか転ぶかしたのだろう。
サルザケ侵入劇で最も楽しかったのは、雪の夜の鶴巻公園である。
そのとき、公園はちょうど工事中で、よく工事現場に立ててあるような背の高いトタン板で囲まれていたが、一箇所施錠忘れのドアがあったので侵入できた。
街中の雪は、溶けたり、ドロドロに汚れたりしていたが、公園の中には腰まで埋もれる無垢の新雪が降り積もったままだった。
その夜は、全身がずぶ濡れになるまで、サルと一緒にイヌのように遊んだ。
この手の侵入癖は、高校生のころからあったのかもしれない。
当時の相棒はスイカ男であった。
彼とは、夜中にブランデーをあおって米軍居留地へ侵入し、MPに追いかけ回されたこともある。
今考えてみれば、狙撃されていてもおかしくない危険な悪戯であった。
夜の三渓園に侵入したこともある。
広い庭園に由緒ある建物、その中にはいろいろな宝物が飾ってあり、横浜の観光名所の一つでもある。
堀に囲まれていて、それを飛び越えても3メートル以上ありそうな柵が立ちはだかっている。
この背の高い柵をよじ登っても、てっぺんはカーブして先の尖った大きなネズミ返しになっており、越えるのにはかなりの勇気を要した。
侵入に成功すると、中は林のようになっていて、そこに腰を下ろして煙草を吸った。
何の目的もない、そこで煙草を吸うのが目的のようなものである。
スイカ男は、煙草を吸いながら辺りの散策を始めた。
僕は、スイカ男の足下の茂みに赤外線装置が仕込まれているのに気が付いた。
「おい、それ赤外線じゃないか? やばいんじゃないか?」
「んな、大丈夫だよ、心配すんな。」
ところが間もなく、スイカ男の楽観を打ち消すように、園内からウーーーーーッ!というサイレンの音が鳴り響き始めた。
「やばい!」と顔を見合わせた二人はいちもくさんで今来た道を引き返した。
サイレンの音は二重三重に糾い、背後でパッ!パッ!パッ!と幾つかのサーチライトが点灯するのがわかった。
運動神経の良かったスイカ男はヒラリと柵を越え、堀の向こうに脱出したが、僕はネズミ返しの先端に服を引っ掛けて四苦八苦していた。
スイカ男は、もう一度堀を飛び越えて柵のところへ戻り、「なにしてんだよ、バカ! 早く降りて来いよ!」と囁き声で叱咤した。
僕は、「オマエが入ろうって言ったんじゃないか!」と半ベソになりながら、園内から複数の人間が駆け寄ってくる気配を感じていた。
間一髪服が外れて下に降り、猛スピードで逃走したが、その後の記憶があまり残っていない。
これが、大学ではサルザケにとって代わったというわけだ。
サルは、理工学部の数学科であったから、どうしようもない人間のようでいて勉強はできたのであろう。
私立高校の教員を経験した後、某有名進学塾の名物講師になり、人気参考書かなにかをでっち上げて一儲けしたはずである。
その後再び教職に就いたと聞いていたが、以来、一度だけ電車の中で遭遇したことがある。
「最近はどうだい、もう昔みたいにサルザケ飲んでバカはできないだろう?」
「いやいや、もう、おとなしいもんですよ。」
「そりゃそうだよな、なんつったって教師だもんな、滅多なことできないよな。」
「それに、もうあんな体力ないですから。」
「なんか寂しいなぁ、最近は酒にまつわるエピソードとかないの?」
「ないですねぇ。」
「そうか。でも、何かあるだろ、小さなことでもいいぞ。」
「・・・・・そうですねぇ、敢えて挙げるとすれば、」
「おぅ、なんでもいいよ、聞かせてくれ、話のネタにしたいんだ。」
「そうですねぇ、飲んだ帰りに電車の網棚の上で寝るくらいですかねぇ。」
「さ、さすがサルだな、どうやって上るんだ。」
「いや、ここに足をかけてこうやると簡単に上れますよ。」
「しかし、終電近くって、けっこう混んでるだろうに。」
「ええ、まぁ、たいていは満員ですね。」
「じゃ、けっこう文句言われたりするだろ。」
「いえ、みんな見て見ぬ振りしますよ。何も言われたことないですよ。」
僕は、サル君の健在ぶりがちょっと嬉しかった。