春の夜風
それは、幻のアングラバンド
「オレンジチューブ」が25年ぶりに復活する
という記念すべきライブでした。
25年前といえば、千葉県柏市方面ではミュージックシーンに
ちょっとしたムーブメントがありました。
「オレンジチューブ」は「スーパースランプ」と共に
そのシーンをリードしていたバンドです。
東京方面の「サンセットキッズ」含め、
いわば日本のニューウェーヴに相当するものでした。
一部オビョーキ音楽などと揶揄されることもありましたが、
商標だけのロックやパンクに満足できないでいた
若いクリエーター達の直感に任せた音楽的挑戦が
背景にあったように思います。
1981年だったか、これらのバンドは
"East West"という大きなコンテストに参戦、
予選を勝ち上がっていました。
当時は、小生にも
既存の音楽の上に胡坐をかくまいという意気があり、
ライバルバンド達の進撃に後れを取らぬよう、
同コンテストで最も遅く登録を受け付けていた横浜から
「スパズロ」というバンドで出馬。
当時、横浜はR&Rが活況だったし、
素晴らしいバンドが幾つもいましたが、
運よく予選を突破、彼らと本戦で出会うことになります。
優勝は「爆風銃(バップガン)」、
準優勝は「サンセットキッズ」と「スーパースランプ」。
その後も交流が続き、「爆風銃」の一部が
「スーパースランプ」の一部と結成した「爆風スランプ」は有名。
小生も、一時は「オレンジチューブ」に参加させてもらった事があるし、
昨年には「サンセットキッズ」のメンバーと組んで
「フォレストソング・トリオ」
のライブ演奏をする機会に恵まれました。
柏の音楽シーンが輩出した人材には、
タレントとして活躍しているサンプラザ中野やパッパラー河合を皮切りに、
作家で演出家の堀切和雅、実業家の豊岡正志、大山大介、
昆虫収集家の丸山雄一など数多。
中に、一際人目を引く男がいました。ギタリストの大島和彦です。
小生は面識程度しかありませんでしたが、192cmの巨人で、
ライブ会場等では否応なく彼の存在に気がつきました。
「爆風銃」のライブを見に行ったときだったか、大島君と
ガリバー橋本(「サンセットキッズ」後「スパズロ」のボーカル、183cm)
に前に立たれ、音しか聞けなかったのを覚えています。
大柄な彼ですが、豊富な音楽知識と細やかで独特の感性を持ち合わせ、
当時の柏ムーブメントの中核的ミュージシャンだったようです。
後に大手楽器メーカーに就職し、音楽と縁の深い人生だったのであろうと推察します。
人間、いい歳になってくると、
昔のバンドを再結成するという動きがよくあります。
大抵は、当時はイカシタに兄ぃちゃんたちだったのが、
太鼓腹も痛々しい中年オヤジ軍団の体で再登場します。
もちろん、伝説のバンド「クリーム」のように、
体はガタガタになっても当時に勝るとも劣らぬ
緊迫感のある音楽を披露してくれる例もありますが、
往々にして焼きの回った蛇足的な興行になりがちなのは否めません。
かくいう小生も、1983年頃ライブハウスを賑わしていた
「かまし連発」の再演やCD製作に貢献しました。
楽しんでくれた方々もおられたので良かったと思いますが、
どうしても若い頃のような音楽的芳香を醸すには至らず再解散。
昔を懐かしむにはいいのですが、再結成の功罪というのはあるものです。
柏連中には、1年半ほど前からでしたでしょうか、
「スーパースランプ」や「オレンジチューブ」の
再結成乃至は再演といった動きが始まりました。
「スーパースランプ」は、ベースの豊岡君を中心に、
新メンバーも加えて新鮮なライブを披露しました。
「オレンジチューブ」は、ボーカルの大山君を中心に、
豊岡君、丸山君たちも交え、かなりオリジナルに近い
メンバーで臨むらしき話を聞いていました。
こういった動きの背景に、ギタリストの大島君がいたのだと思います。
各方面に声をかけ、精力的に関与していたようです。
果たして、25年ぶりに再演された
「オレンジチューブ」は、圧巻でした。
往年の暴力的なムードは排除されていましたが、
その分エスプリの効いた大人のパンクロックミュージック
(大山君は「ポップス」と呼んでいたが)でした。
演奏もしっかりしていて、
ダイナミックだが繊細、ノリノリだが意味深、
往年の「オレンジチューブ」を再現して余りあるステージでした。
実にエレガントだったし、セクシーだった。
ギタリストである大島君は、
長身を生かしたダイナミックなステージパフォーマンスか
というとさにあらず、椅子に腰掛けてレスポールを弾いていました。
オープニングに「キングクリムゾン」のカバーを織り込んでいたので、
ロバート・フリップの向こうを張ってるのかしらと思っていたら、
体調が優れなかったのだそうです。
リハーサルで鼻血が止まらなくなって大変だったなどという逸話を
本人もメンバーも笑い話にしていました。
昨日、「かまし連発」の関係者が企画した
ライブに誘われ、見に行きました。
2ヶ月ほど前に「オレンジチューブ」の再演が行われた正にその場所です。
知った顔も多く、老若男女入り乱れての興行ですが、
若い人向けなので、立ち見オンリーのフロアです。
運良く脇に幾つか椅子が出してあるのを見つけ、
ヨッコラショと腰をかけていると、
この後アイドルのバックバンドでベースを務めることになっている
豊岡君が通りかかった。
「あ、なおきさん」
「おぅ」
「大島って、面識あるよね」
「もちろん」
「死んだよ」
「?」
「いま電話があったんだ」
顔の下半分は豊岡君独特の笑顔ながら、
眉間に縦皺を寄せた悲痛は表情は、
その知らせが青天の霹靂であったことを物語っていました。
「急に入院したっていうんなら話は分かるんだけど・・・」と、
豊岡君はその事実をどのように受け止めていいのか迷っているふうでした。
1ヵ月後には更なるライブが予定され、
「オレンジチューブ」にとっては意気上がる矢先の出来事でした。
丸山君からも電話が入りました。
数日前にリハが予定されていたが、
体調が優れないから行けないと連絡があったとのこと。
「自分の健康がどういう状態にあるのか知ってたんじゃないかな」
と丸山君。知っていたからこそ、柏ムーブメントの連中に声をかけ、
もう一度ステージに戻ったのではないか。
小生は2ヶ月前、正にそのライブハウスで、
殆ど初めて彼と会話を交わしました。
お互いに歳を取ったことを嘲り、
「もう俺ガタガタだよ」などと笑っていた彼。
しかし、その健康不振が何の予兆であるのかを知っていたのは、
彼自身だけだったのでしょう。
別れ際、面識こそあれ実質的には初対面ともいえる小生にも
握手を求めてきた彼。
実は最近、同年代で急逝する知人が相次いだことになります。
「今のパスに愛はあったか」と学生たちを諭していた
尊敬するサッカー指導者、横田氏も病魔に倒れ、
先月その通夜に行ったばかりです。
勤め帰りに遅れて到着すると、式は済んだ後でした。
人影が疎らな中、焼香をすると、
娘さんと思しき若い女性が深々とお辞儀をしてくださった。
式場を出ると、サッカー部のOBたちが残っていて、
なかなか解散する気配はありませんでした。
「悔しいよな」
小生はそんな言葉をかけてやるのが精一杯でした。
そして、もう一度、奥にある祭壇に向けて、
思わず部活の後輩が先輩にするような礼をし、
その場を立ち去ったのです。
喩えようのない春の夜風が動いていました。
---2010/4/12 橋本