夜の久我山

 3月には敬愛するサッカー指導者を失い、 通夜に出席すべく会社から蜻蛉で帰って喪服に着替えました。 以前のエッセイで 一緒に風呂に浮かんだ尊敬する先輩コーチも遠路小田原から駆けつけると聞き、 久々にその方にお会いするから帰りは遅くなるだろうとカミサンに告げると、 「ははぁ〜ん」と言う。 ご一緒に活動していた時代、よく彼と飲み歩いていたのを思い出したのでしょう。 なにがははぁんだ、遅刻もいいところだから出かけるぞと告げると、 「ちょっと、お風呂洗ってってよ」。 小生、初めてです、喪服着て風呂掃除したのは。 如何せん、先輩コーチとは擦れ違いでお会いできませんでした。

 4月には前段のエッセイで ご紹介した通り、「オレンジチューブ」のギタリストが他界。 池袋方面まで通夜に行きました。 そこでは、安全バンド再演で ご紹介した浦和ロックンロールセンターのスタッフであり、 伝説の女性ロックバンド「マゼンダ」のベーシストであり、 現在「オレンジチューブ」でキーボードを勤めるヨシコさんにお会いしました。 とても優れたミュージシャンで、有り難いご縁だと思います。 のみならず、1983年(?)のコンテストで 「サンセットキッズ」と「スパズロ」の両方で活躍したギタリストの ヤスヲ君にも何十年ぶりかで再会。 省庁に勤める国家公務員である彼を、やっかみ半分、 「オマエなんか(事業)仕分けられちゃえ」と囃すと、 「いや、このまえ本当に出席してて、すぐ前に蓮舫さんがいましたよ」。 これには驚いたが、尚も囃し続け、「役人辞めて政治家になれ」 「政党名は『天下れ日本!』でどうだ」などと、留まるところを知らず。

 そして5月、同じ日に、お二方の訃報が飛び込みました。 お一方は、結婚式のときお世話になった司祭。 背の高いダンディーな出で立ちに、輝くような優しい眼差しをお持ちの方で、 不深甚な小生ですら、朗々としたお声の説教を拝聴するのが楽しみでした。 何年も前に他の地域に異動され、定年され、再び横浜の山手に戻っておられました。 通夜は、雨の降りしきる中、4百人以上が駆けつけたため教会の中に入り切れず、 小生は、他の何十人という方々と共に、特設テントの下で1時間半立っていました。 教会から賛美歌が漏れ聞こえてくるとそれに合わせて口ずさむ、 後はテントを打つ雨の音だけです。 かなり疲れてきた頃、教会の関係者が回ってきて、 献花が始まったがまだ何十分か掛かりそうだなどの情報をくれたり、 ご老人用に折りたたみ椅子を宛がったりし始めました。 すると、それまで何も言わなかったすぐ傍のご老人が意見された。 これが誠に良い言葉で、胸が熱くなりました。 「僕達は、まだ、先生にご挨拶をしていないんだよ」。 そうだよ、そうなんだ、僕達は先生にご挨拶をしにきたんだ。 中に入れるまで頑張ろう。 疲れなぞどこかに吹っ飛んでしまいました。

 もう一方は、かつての会社の後輩であり、 後に高校教師になった杉本君というドラムプレイヤーです。 一回りほど年下ですが、かつてバンドで一緒にプレイした仲間です。 バンドが解散し、弾き語りを始めたとき、最初のライブに駆けつけて 「ブラボー!ハラショー!」という内容のメールをくれた奴です。 その後 "Gestalt Muzik" というバンドを組んで再び一緒に演奏しましたが、 最近その音源を聞いたオレンジチューブの丸山雄一が珍しく絶賛したほどの腕前でした。 通夜は昨日、烏山方面で執り行われ、多くの学生達が駆けつけていました。 人望の厚い先生になってたんだなと、不思議と少し安心を覚えました。 帰りはタクシーを使わず、夜風に吹かれながら久我山の駅まで歩くことにしました。 途中に、一時通い詰めていた協業会社の社屋がありました。 13年ぶりくらいになるでしょうか。その周辺に、かつて 森の音楽を 発見させてくれた公園や小川が、今も当時のまま残っていました。

--- 26.May.2010 Naoki


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